生死を分けた判断
こんばんは。
本日は私の曾祖母と祖母、そして母が体験した話をさせていただきます。
私は幼い頃から、ずっと聞かされてきましたので、今でも記憶にあります。
空襲を受けた時の話なので、よく終戦記念日に祖母が話をしてくれました。
優しくてひょうきんな祖母でしたが、今はもうおりません。
前置きが長くなりましたが、そろそろ本題に入らせていただきます。
当時、曾祖母達は福岡県北九州市八幡東区桃園というところに住んでいたそうです。
祖母は、八幡製鉄所に勤務しており、母はまだ幼い時分でした。
あの日・・・
曾祖母は具合が悪い母を、町の医院に連れて行っていたそうです。
すると、空襲警報のサイレンが突如鳴り響きました。
八幡を爆撃にし、アメリカ軍のB29やグラマン攻撃機が約数百機にも及ぶ大編隊を組み、襲来しました。
曾祖母は、幼い母を抱えて走り、近くの防空壕へ駆け込んだそうです。しかし、そこは既に満員に近い状態でありました。(小伊藤山の大防空壕)
それでも入れるぐらいではあったようですが、曾祖母は何か嫌な予感を感じたらしく、そこを出て違う防空壕へ行こうとする曾祖母を制止する人の声を聞かずに飛び出し、山の上のほうにある違う防空壕へ母を抱えて必死に走ったそうです。
何とか間に合い、それから少しして本格的な空襲が始まったそうですが、空襲が終わるまでの間、生きた心地がしなかったとか。
空襲後、外に出てみると、辺り一面焼け野原で、後になって話を聞いて分かったそうですが、一番先に避難した防空壕(小伊藤山の大防空壕)にいた人達は300人以上が亡くなられたそうです。
あの時、曾祖母が判断を遅らせていたり迷ったりしていれば、もしかすると二人とも死んでいたと思います。
そうすると、私もこの世に存在しなかったという事になります。不思議な事は世の中に沢山ありますが、こういう事もあるのですね。
また来年の終戦記念日には、母から話を聞いてみようと思います。そして、私なりに後世に語り継いでいければとも思います。
生きている事に感謝です。