切り文
何の罪も過失もない人を陥れようとする人間は、既に魂を悪魔にでも売り払っているのだろう。そうでなければ、そのような事は思いつくはずがない。
よく、発言の揚げ足を取って執拗に叩く輩がいる。個人だけではなく、マスコミにもそういう事がよく見受けられる。
見ていて嫌になる。叩く事こそが正義だと言わんばかりに、一斉に攻撃を始める。
それはあたかも、巣を刺激された蜂が対象に向けて、集団で襲いかかるのに似ている。
官房長官が3,000円のパンケーキを食べたぐらいで、ああだこうだと喚きたてる。
3,000円のパンケーキを食べて何が悪いのか?
何も悪くない。逆に良いぐらいだ。その分店の売り上げに繋がっている訳であるし、経済だって、その分潤うではないか。
その程度の事で騒ぎ出す事が、私には全く意味が分からない。
発言の、たった一言だけ大きく取り上げて、いかにも問題発言をしたといわんばかりの悪意ある報道をおこない、多くの人をミスリードする。
それが報道としてのあるべき姿なのか?
私の師からは、常々こう言われてきた。
それは『文言の一部分だけを抜き出して、都合の良いように解釈してはならない。そんな事をすれば、正しい意味が読めなくなり理解できなくなる。道を誤る一歩だ』と。
こういうのを切り文といって、強く戒めるよう教えを受けてきた。
だから故意に、また何らかの悪意か意図をもって、人を貶めるような情報を発したり流したりする輩を、私は強く軽蔑している。
確実な証拠がないのに勝手に決め付けたり思い込んだりして、正義感を暴走させると、とんでもない事態を引き起こしかねない。これまでにも、デマの情報から、多くの人が被害を蒙ってきたではないか。
情報社会と言われて久しいが、本当にありとあらゆる情報が溢れていて、簡単に手に入り、また発信もできる世の中になった。世界中のニュースも、手軽に見聞できるようになった。
非常に便利である。しかし便利であるが故に、扱う場合には慎重さを要するのではないか。
文明の利器を使用するには、何をおいても、それを使用する人間の人格や心といったものが、正しく整っていなければならないと思う。
大きな力には大きな責任が伴う、である。